母が認知症——実家を売りたいのに、売れない。取引が止まる前に
2026年7月14日by 代表 髙岡宏

施設費用のために実家を売る——買主も決まり、実印も権利証も揃った。それでも決済に先立つ司法書士との事前面談で、取引が止まることがあります。母が認知症になると、なぜ実家は売れなくなるのか。福岡の司法書士・土地家屋調査士事務所が、成年後見の現実と、元気な今なら選べる三つの道を、脅さずに整理します。
ある日の午後。売主である80代のお母さまを訪ねて面談しました。判断能力が衰え始める80歳以上の方や、ご親族からのお申し出で判断能力に疑義が生じている方について、クロニクルでは、登記をお任せいただく立場から、決済に先立ってお目にかかり、ご本人のご意思を確認しています。
確認することはシンプルです。まず、住所・氏名・生年月日・干支といった人定質問にお答えいただく。そのうえで、どなたに、どの不動産を、いくらで売るのか。ご自身の言葉で説明できるか、です。
その日、お母さまの応答は曖昧でした。売る相手も、金額も、問いを変えても言葉が続きません。買主が決まり、実印も権利証も揃っていたのに——取引は、決済の日を迎える前に止まりました。
この売却は、お母さま自身の施設費用をつくるためのものでした。それでも、進められないのです。
あるご相談では、ご親族から「判断能力はほとんどない」とあらかじめ伺っていました。ご本人は寝たきりのご様子。それでも、ご本人の施設入居費用をつくりたいというご家族の切実な思いを受けて、ダメ元で面談に伺いました。結果は、やはり難しいものでした。止めるのは、私たちにとっても本意ではありません。ご家族の願いを邪魔したいわけでは決してなく、ご本人と、取引に関わるすべての方を守るための役目だからです。かなわなかった申し訳なさと、それでも譲れない一線とのあいだで、私たちも揺れています。
熊本の息子と、福岡の実家
冒頭の場面も含め、ご相談の典型をひとつの事例に再構成してお話しします。熊本市にお住まいの40代の息子さん。福岡の実家には、80歳のお母さまがひとりで暮らしています。帰省のたび、物忘れが少しずつ増えていくのが気がかりでした。
やがて在宅での生活が難しくなり、施設への入居を考え始めます。民間の調査では、福岡の有料老人ホームは入居一時金のほか、月15〜20万円前後が一つの目安とされます。お母さまの年金だけでは足りません。空き家になる実家の売却代金が、費用の原資になる計算でした。
不動産会社に相談すると、買主は早々に見つかりました。実印も、権利証も、印鑑証明書も揃っている。あとは決済を残すだけ。その決済に先立つ司法書士との事前面談で、冒頭の場面を迎えます。
離れて暮らしていると、親の変化に気づくのはどうしても遅れがちです。「書類が揃えば売れる」と考えていた息子さんにとって、まさかの事態でした。
なぜ売れないのか——「認知症だから」ではない
売却を止めていたのは、病名ではありません。民法には、意思能力を欠く状態で行った法律行為は無効になる、という定めがあります(民法3条の2)。売買の意味を理解できない状態で署名・押印しても、その契約は効力を持ちません。家族であっても、本人に代わって実家を売る法的権限はないのです。
ただし、認知症と診断されたら即売れなくなる、というわけでもありません。意思能力は診断名ではなく、「その行為を、その時点で理解できているか」で個別に判断されます。程度にはグラデーションがあり、軽度であれば、医師の診断書や日を改めた面談を重ねて売却できたケースもあります。
むしろ難しいのは、白黒のはっきりしないグレーゾーンです。契約のときは受け答えができても、数か月後、決済を前にした面談では確認が通らないことがある。この時間差で止まるリスクこそ、実務でいちばん怖いところです。
そして、売れるかどうかを最後に見極めるのは、家族でも不動産会社でもありません。医師の診断をふまえつつ、登記を担う司法書士が決済に先立つ面談でご本人に確認します。これは、私たちが日々担っている役回りです。
死後の凍結は解ける。生前の凍結は解けない
以前、預金凍結の記事で死後の預金凍結を扱いました。あちらは、相続手続きの順番を踏めば解けます。時間はかかっても、出口はあります。一方、生前の実家の「凍結」——法律用語ではなく事実上の状態です——は、ご本人の判断能力が回復しない限り解けません。残る道は、成年後見だけになります。
発症後のただ一つの道、成年後見——その現実
まずお伝えしたいのは、成年後見はご本人の財産を、ご本人のために守る大切な制度だということです。施設の契約や財産管理を支える仕組みで、クロニクルも申立て書類の作成支援を業務としています。
そのうえで、「実家を売るためだけに使うには重い」という現実があります。後見人は家庭裁判所が選びます。最高裁の統計では、親族が選ばれたのは約16%にとどまり、8割超は司法書士などの専門職でした。専門職後見人には月額2〜6万円めやすの報酬が、ご本人の財産から支払われ続けます。
施設入居で空き家になった実家も「居住用不動産」にあたり、売却には家庭裁判所の許可が要ります(民法859条の3)。許可されるとは限らず、申立ての準備から売却まで数か月単位を見込みます。しかも現行制度では、売却が終わっても後見は原則、ご本人が亡くなるまで続きます。
なお2026年6月、必要な期間だけ利用できる方向の改正法が成立しました。ただ施行は2028年頃とされ、いま直面するご家族は現行制度で動くことになります。「改正を待てばいい」という新しい先延ばしは禁物です。
施設費用の資金計画や売却に伴う税務は、他士業の領域です。必要な場面では、クロニクルが窓口となって提携の税理士・FPへお繋ぎします。
実務では、実家の売却を入り口に後見の申立てを検討されるご家族が少なくありません。ただ、ここに一つ、お伝えするのに苦慮する現実があります。後見人が選任されても、それだけで実家が売れるわけではないのです。居住用不動産の売却には家庭裁判所の許可が別に要り、許可には相応の理由が求められます。売りたい一心で申立てをしても、許可が下りなければ売れない——この段取りをご説明すると、多くのご家族が戸惑われます。「そこまでして、それでも売れないことがあるのか」と。制度の重さを、いちばん近くで見てきた実感です。
元気な今なら、選択肢は三つある
視点を変えます。お母さまが元気で判断力のある今なら、選べる道は一つではありません。
一つめは家族信託です。実家の管理や売却をあらかじめお子さんに託し、必要になったとき受託者の判断で売却して施設費用に充てられます。設計時に初期費用はかかる一方、後見の専門職報酬はご本人が亡くなるまで続くため、長い目で見た負担は逆転することもあります。仕組みの詳細は実家信託の記事に譲ります。
二つめは任意後見です。元気なうちに「この人に頼む」と、ご本人が公正証書で決めておく制度です。発効後は家庭裁判所が選ぶ監督人が付き、公的なチェックも働きます。詳しくは任意後見の記事をご覧ください。
三つめは、元気なうちの生前売却です。お母さま自身が納得して売り、住み替える、最もシンプルな道です。住み続けたいお気持ちとの兼ね合いが論点になります。売却では、境界の未確定や未登記の増築が第二の壁になることもあります。司法書士と土地家屋調査士の両輪を持つクロニクルなら、前提をまとめて点検できます。
どれが向くかは、ご家庭の状況次第です。始める時期の見極めは家族信託を始めるタイミングで扱っています。
まとめ——「まだ元気」は、まだ選べるということ
「売れない」を生む仕組みは、どれもお母さまの財産を、お母さま自身のために守るものです。裏を返せば、意思を確認できる今なら、お母さまが自分の財産の使い方を自分で決められます。元気なうちに動くことは、親の尊厳を守ることでもあります。
どの段階にいるかで打てる手が変わるからこそ、「間に合うかどうかの見極め」自体に、早めに相談する価値があります。クロニクルでは、ご家庭ごとの健康診断——名義・財産・ご本人の状況の論点整理を承っています。熊本など遠方にお住まいでも、オンラインで進められます。
実感を、もう一つ。まだお母さまがお元気なうちにご相談に来られたご家族がありました。将来に備え、実家の管理と売却の権限をお子さんに託す家族信託を組んでおかれたのです。数年後、認知症が進み、施設への入居が必要になったとき。受託者となったお子さんの判断で実家をスムーズに売却し、その代金を入居費用に充てられました。後見の申立ても、家庭裁判所の許可も要りません。あのとき動いておいてよかった——そう振り返るご家族の言葉が、私たちの励みです。
ご実家の名義と、お母さまの「今」を、正確に説明できますか。



