相続登記を済ませた矢先に、売主が亡くなった——それでも、一からやり直しにはなりません

司法書士・土地家屋調査士 髙岡 宏
2026年8月25日

決済の一か月前に、売主であるお母様が亡くなりました。「また一からですか」——いいえ、一からにはなりません。売買契約は消えず、2年前に済ませた相続登記も生きています。やり直すのは、今回の相続と決済の日程だけです。
「また一からですか」。事務所に来られて、お二人が最初にそう言われました。
買主は、もう決まっていました。決済を一か月後に控えて、売主であるお母様が亡くなりました。
いいえ、一からにはなりません。家の権利も、売買契約も、消えていません。
当事務所によくいただく内容を、一つのモデルケースに再構成してご紹介します。
2年前、お父様が亡くなりました。福岡近郊の実家は、お母様が一人で相続しました。相続登記も済ませ、名義はお母様に変わりました。
登記が完了した日、ご家族は「これで相続は終わりましたね」と晴れやかに帰られました。私も一緒になって、深く頷いていました。あの日は、本当に終わったと思っていたのです。
今年の春、お母様が「一人には広すぎる」と売却を決められました。買主が決まり、売買契約を結びます。決済の一か月前に、お母様が急に亡くなりました。相続人は、長男と長女のお二人です。
一から、ではありません
お二人が、戸籍の束を抱えて事務所に来られました。
実家は、すでにお母様の財産です。ですから今回起きるのは、お母様の相続、一件だけ。お父様の相続は、2年前に終わっています。
集める戸籍も、今回の分だけです。2年前にそろえた書類は、そのまま生きています。
ただし、お母様の相続では、出生までさかのぼる戸籍を、あらためて全部たどります。2年前には要らなかったものです。以前のご結婚でお子さんがいれば、その方も相続人になります。長男・長女と、同じ立場で。戸籍をたどって、初めて分かることもあります。
今回は、お二人だけでした。戸籍を机に並べて確かめたとき、私は静かに安堵しました。何も増えていない、というのが最高の知らせです。職業病だと、自分でも思います。
もし2年前に登記を後回しにしていたら、こうはいきませんでした。お父様の遺産を誰が受け取るかという話し合いから、始めることになります。たどる戸籍も、お父様の出生からと、お母様の出生から。その両方です。
しかも、年月が長引けば、その間に相続人ご自身が亡くなることもあります。すると、配偶者やお子さんが話し合いに入ってきます。会ったことのない親族と、実家の分け方を決めることになります。
放置した家に何が起きるか、そして戸籍から知らない相続人が出てきたときの進め方は、別の記事に書きました。
相続登記を放置した家に何が起きたか
前妻の子と連絡が取れないとき
なお、令和6年4月から相続登記は義務になっています。今回のお母様の相続にも、新たに3年の期限が走り出します。
売買契約は、亡くなっても消えません
「白紙になりますよね」。お二人は、そう思って来られました。しかし、契約は生きています。
売買契約は、売主が亡くなっても消えません。売主の立場は、そのまま相続人に引き継がれます。相続人がお二人なら、二人そろって売主です。家を引き渡す義務も、名義を買主に移す義務も、二人に降ってきます。
むしろ、やめるほうが難しくなります。手付を使った解除も、契約そのものの解除も、相続人が全員そろってでなければできません。
決済の日は、動きます。買主にとっても、予定外の話です。
なお、売ったときの税金には、期限のある特例があります。期限のほうは、事情を待ってはくれません。使えるかどうかの判定は、税理士の領域です。クロニクルが窓口となって、提携の税理士へお繋ぎします。
買主に名義を移す前に、もう一度、相続登記
一般的な売買契約では、代金の全額が支払われたときに、家の所有権が買主へ移ると定めています。お母様は、その支払いを受ける前に亡くなりました。ですから所有権は、まだお母様のところにあります。
買主に名義を移すには、まずお母様からお子さんへの相続登記を入れます。亡くなった方から買主へ、直接は移せません。
このとき、名義をお二人にするか、話し合って一人にするか。どちらもあり得ます。実家を誰が引き継ぐのかを、ここであらためて決めることになります。
決済の日が延びるのは、この登記のためです。話し合いをまとめ、お二人の戸籍と印鑑証明書をそろえる時間が要ります。
決済の当日、代金が振り込まれてから法務局へ申請を出すまでは、数時間しかありません。人にものを頼む契約は、頼んだ本人が亡くなれば、そこで終わるのが原則です。けれど登記の申請を任せる委任だけは、亡くなっても終わらないと決められています(不動産登記法17条)。決済が済み、代金が支払われ、委任状をお預かりした後の、その数時間を守るための決まりです。
お母様は、その数時間の手前で亡くなりました。だから、相続登記が要ります。
売主が亡くなったと伺ったら、まず引渡しの期限を見ます。決まった日に間に合わないなら、期限を延ばしておかなければなりません。契約書を結び直すか、覚書を交わすか。どちらで進めるかを仲介の不動産会社にお伝えし、書面にしていただきます。相続登記が済むまでの時間を、契約の側で先に確保します。
受け取った家は、受け取った瞬間から、自分の相続財産です
実家を売ると決めるのは、たいていご家族の中でいちばん年長の方です。親を看取ったということは、順番でいえば、次は自分だということでもあります。
売り出しから決済まで、半年から1年。その時間を、ご自身の予定に入れている方は、まずいません。
相続登記が済んだ日は、手続きの終わりではありません。その方ご自身が、遺言を書く合図です。実家を売って分けると遺言に書き、遺言執行者を決めておけば、手続きはその方が進めます。お子さんたちの判子を、一枚ずつ集める必要はありません。
お母様は、お父様の相続を済ませていました。そこまでは、済んでいました。済んでいなかったのは、ご自身の分です。
何から手をつければよいか分からない方は、クロニクルの生前対策コンサルティングへ。ご家庭の健康診断として、論点の整理からお手伝いします。
まとめ
家の権利は、消えませんでした。売買契約も、生きたままでした。2年前に済ませたお父様の相続は、最後まで誰の手も煩わせませんでした。やり直したのは、お母様の相続と、決済の日程だけです。失われたのは時間であって、家ではありません。
実家を売り終えるまでの半年、一年を、ご自身の予定に入れていますか。






